日本の環境政策 6

山村農民人口の減少と老齢化、不在村森林所有者の増大・・・。


これらによる山村社会機構の解体化は、たんに造林や保育や間伐の遅れをもたらしているだけではありません。


山村の過疎化は、かつての日常生活そのものとしての山まわりや倒木・損木の防除や防火など、要するに地域全体としての森林の通常の施業や管理や保護の広範な粗放化・解体化をもたらしています。


そのために森林生育の活力は弱まり、風害・雪害・病虫害(松くい虫など)・林野火災など森林の被害が増大しています。


加えて、道路・ダム建設、観光・宅地開発など国土開発の進展と治山事業の遅れは、林地崩壊・土砂流出など山地災害を増大させているのです。


こうして森林と国土の荒廃がすすみ、森林がもつ理水機能(洪水量を減らし、渇水量を増やす機能)など、本来それが果たすべき公益的機能は大きく弱められているのです。


これまでのダム建設は山村住民にとっては、村落の崩壊や自然災害の発生、農林業の衰退や自治体財政の危機化など、"百害あって一利なし"といって過言ではないものでした。


国土庁の計画では、生活・工業・農業の用水需要の増加に対応するため、75~90年に建設省所管分だけで新たに358のダムを建設する予定でした。


この水需給計画については、「河川・湖沼と海を守る全国会議」がその"水増し"を批判して、「新たなダム建設は不必要だ」と問題にしており、また国土庁も全総に向けてその"見直し"を行っています。


ともあれここで強調しておくべきことは、その理水機能に関して、ダムがいかに小さく、森林がいかに大きいかということでしょう。

日本の環境政策 5

こうした経営が巨額の財投資金の導入(その金利は80~82年で8・5~7・3%と、およそ森林の収益とはかけはなれた高利です)によって行われている実態。


これは、先進資本主義国の国有林にその例をみないものです。


総じて国有林経営の現状は、その重要な「使命」の一つである「国土の保全・水資源のかん養、自然環境の保全形こなど森林の「公益的機能」を発揮せず、その将来にわたる"機能の蓄積"を大きく食いつぶしつつあると言わねばならないでしょう。


他方、民有林では「低成長」下、住宅建築の減少などによる木材需要の停滞と外材輸入の増加の中で、国産材需要の減少はいちじるしいものでした。


木材自給率は、70年の45%から80年の32%にさらに低下。


木材伐採量の減少と中小木材業者の倒産、中小林家の経営悪化と林業従事者の老齢化などによって、造林の減退がいちじるしいものでした。


民有林の人工造林面積は、70年の26・8万㎞から80年の11.6万㎞に激減しています。


また、保育作業(下刈り・枝打ち・除伐など)や間伐の大幅な遅れが目立っています。


間伐期に達した民有林の森林面積は375万㎞(人工林面積のほぼ半分)、うち「緊急に初回間伐を必要とします)面積は約190万㎞にのぼっていますが、その実施面積は年間10~20万㎞余にすぎないのです。

日本の環境政策 4

こうした中で財界は、「21世紀グリーン・プランへの構え」(経済同友会・71年)を唱えて、変わり身早く方向を転換しました。


この提言は何よりもまず、「従来の森林政策の理念である木材採取を主とする"フロー重視主義"から蓄積を重視する"ストック重祝主義"への政策理念の転換」を求めていました。


そして、「高密度社会の形成」にともなって、「大気や水の浄化・・・など自然の環境資源」としての森林の役割や、「生活用水、工業・電力用水など・・・水資源の滋養」機能などを重祝せよというものでした。


60年代「高度成長」期の財界本位の木材増伐と都市工業への労働力集中にかわって、今度は山村の土地・森林・水・景観・空気など全「環境資源」を、新たな資本蓄積のための「社会資源」として再編成しようというものでした。


日本の木材需要を当面は外材でまかなうべしとする体制が強化される中で、「低成長」下の国有林経営は、財界の新たな路線にそって、また自然保護の世論に名をかりつつ、営林局・署、事業所などの統廃合を推進。


"十欠一補"といわれる人員削減を強行し、直営事業を請負化し、こうして「天然更新」という名の造林放棄と"手ぬき造林"を拡大しました。


全林野労組の調査によれば、戦後国有林が造林した125万㎞のうち、2割に当たる40万㎞が、"将来立派な森林にならない、不良造林地"であるといいます。


また、地元部落での雇用を削減して、山村の過疎化をさらに促進しました。

日本の環境政策 3

80年代の日本の進路は、60年代「高度成長」路線と軌を一にする大企業の利潤本位の環境政策と経済運営を認めるのか。


それとも、遠くはない過去のきびしい国民的経験に学んで、環境と国土の改善優先、国民生活本位の経済発展の道を求めるのか¥・・。


この2つの方向をめぐって争われているといっても過言ではないでしょう。


70年代初頭の林業・山村は、「高度成長」末期、一極点にたっした資本の山村開発と、他方、公害反対運動の高揚の中で激しく燃え上がった自然破壊告発の世論・運動のはざ間にあって、"開発か環境か"をめぐって大きく揺れ動いていました。


実際、新全総から「日本列島改革」ブームにいたる諸過剰資本の山村への殺到と、ゴルフ場やスカイ・ライン開発など観光開発による自然破壊はすさまじいものがありました。


加えて国有林の大面積皆伐や林道開発、除草剤散布、造林・治山事業の立ち遅れなど、高度成長型森林開発は、掴立公園をはじめとする幾多の貴重な自然と森林の破壊、林地荒廃、さらには山地水害をもたらしました。


そして、そうした開発の嵐と激しい過疎化の波にほんろうされていた山村農民は、しばしば都市の"一木一草をも採ってはならぬ"とする絶対的自然保護論者から、当面の敵とみなされたのです。

日本の環境政策 2

巨大企業をはじめとする財界、そして政府の環境問題をめぐるあからさまな"巻き返し"は、このほかにも74年以来OECDから重ねて勧告を受けています。


76年に環境庁自身が制定を唱えた環境アセスメント法案をめぐる7年間の動きや、また82年4月に3たび国会提案が見送られ、83年春には全体として規制を大きく緩めてようやく国会に提出されたものの、実質審議も行われないまま継続審議となった湖沼法案(湖沼水質保全特別措置法案)。


あるいは、環境庁長官自身がゴーサインを出した志布志湾(鹿児島県)の石油備蓄計画推進など、枚挙にいとまのないところです。


1982年版『環境白書』は、交通公害や湖沼汚染など環境問題が新たに深刻化している中で、「環境の状況は、・・・近年、全般的には改善を示してきている」という現状認識を示しました。


そして、「地球的規模での環境問題解決への貢ことともに、地域ごとの「快適な環境づくり」の必要を高らかに提唱しています。


そして一方、財界・経団連は、前記補償制度の"見直し"をはじめ、環境アセスメントの立法化に対する"疑問"や、地方自治体の条例による「上のせ」・「横出し」規制の"是正"など、公害規制"骨ぬき"のための多面的なプログラムの実現を第2次臨時行政調査会に対して「要望」。


こうして臨調答申後の今日、「新行革大綱」の下で、環境行政それ自体が「行財政改革」の一標的となっています。

日本の環境政策

78年7月、環境庁は、亜硫酸ガスにかわって大気汚染防止の焦点となってきた二酸化窒素の環境基準を、従来の基準(1日平均値0・02PPM以下)から大幅に緩和しました。


これによって、環境基準の達成率は16・5%から、告示即日93・7%へと一挙に"改善"されたのです。


この改定に際しては、自動車工業会から自民・民社両党への巨額の政治献金や、日本鉄鋼連盟の「二酸化窒素基金」、「トヨタ財団」などから中央公害審議会専門委員への「研究費」の供与などが、国会の内外で問題とされたものです。


しかし、緩和措置は実施され、これによって電力・自動車・鉄鋼などの巨大企業、設備投資など莫大な費用の「節約」を約束されます。


また、本四架橋・高速道路・火力発電所などの建設に向けて、環境基準達成上の大きな"あい路"がとり除かれたのです。


もちろん、この緩和措置によって大気汚染が現実に改善されるはずもなく、大気汚染による公害病認定患者はその後も増加を続けています。


しかし、この点については現在、公害健康被害補償制度(補償費用は"PPP"によって8割を産業界が負担)それ自体の"見直し"が行われているのです。


同補償制度の要件に窒素酸化物が加えられることによって、費用負担が契するのを極力回避し、さらには同制度の縮小を図ることに、さきの緩和措置のいま一つのねらいがあったと言うべきでしょう。

卒業して帰る国なし

10年以上前の話。

「ベトナム料理 MAI・LAN」と書かれた狭いドアを開け、薄暗い階段を上ると、ハっとしました。

100人以上のお客を収容できる広さ、そして、フランス風の店内装飾・・・。

オーストラリアの首都キャンベラにいながら、パリのレストランにでも入ったような錯覚を起こしました。

「やっと落ち着けるところができたヨ」

店長さん(当時34歳)は、流ちょうな日本語で、しみじみ話し始めました。

ホーチミン市(旧サイゴン)近郊で生まれた店長さんは、地元の高校を卒業すると、日本の某大学に留学したそうです。

「戦争が終われば、経済復興の時代が来る。それまでに、日本を勉強しておいた方がいい」と勧められたためです。

ところが彼が大学4年の時、ベトナム戦争が終わりました。

南ベトナム政府は消滅し、パスポートは無効になったのです。

この日から、「ベトナム人でも日本人でもない生活」が始まりました。

国からの奨学金も、途絶えたそうです。

かろうじて、某市ロータリークラブからの奨学金で食いつなぎ、家庭教師やボウリング場のアルバイトをして、大学院を卒業しました。

就職も地元の酒造会社に決まりました。

もう、ベトナムに帰っても仕事がない・・・日本で永住権を取ろう、と思ったそうです。

しかし、日本に10年以上も住んでいたのに、法務省の壁は厚かったのです。

「このままでは、日本で子供ができても、国籍さえ取れない」。

思い悩んだ末に、オーストラリア行きを決意したそうです。

「国も広いし、人も少ないから、何とかなると思った」と、店長さんはちゃめっ気たっぷりに笑っていました。

他国の「民族自決」に刺激

ニューカレドニアはどこへ行くのか・・・。

それは島民ばかりでなく、太平洋に残った他の植民地の住民にとっても大きな関心事でした。

タヒチ、ワリスなど、ニューカレドニアの動き次第では独立を求める声が出る情勢のところもありました。

インドネシア領のイリアンジャヤ(東ニューギニア)、マレーシア領のサバ州(ボルネオ北部)などの所属する国から分離独立をめざす動きにも刺激を与えることでしょう。

太平洋圏では、「民族自決」を求める声はまだまだ現実のものでした。

ニューカレドニアは大きな流れの通過点にすぎません。

独立をめざす大きなうねりは、鉱物資源、木材、漁業、観光などで強い結びつきのある日本にとっても、決して無関心ではいられないことです。

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独立もとめ、武力行使に出る

独立を求め、武力行使に出たのはカナク社会民族解放戦線(FLNKS)、先住民族のメラネシア系カナク族で組織する"過激派"でした。

FLNKsは、指導者ジャンマリ・チバウ氏を議長として84年12月1日、臨時政府を樹立。

「カナキー」の独立を宣言しました。

そして、島部一帯で道路を封鎖し、独立を武力で勝ち取ろうとしたのです。

この過程で、独立反対のフランス系住民と衝突が起き、爆弾テロ、銃撃戦によって双方に死者が出ました。


カナク族に武器を取らせたものは何だったのでしょうか。

ヌーメアの下町。

小さな公園のベンチに座り、新聞を読みふけっているカナク人の老人に話しかけました。

「この騒ぎをどう思う?」

「お前さん、知ってるかい。この国じゃあ、おれたちなんてお荷物みたいなもんだよ。

フランス人ばかりがいばって・・・」。彼はゆっくりと、しかし悲しみを込めて語りました。

実際、ヌーメアの街を歩くと、メラネシア人たちの表情の暗さが気になりました。

お隣のソロモン諸島やバヌアツのメラネシア人のはつらつとした表情とはどこか違います。

「植民地」という重圧は、微妙に顔に出るものなのでしょうか。

ニューカレドニアの歴史は、カナク族に言わせるとそのまま忍耐の日々だといいます。

1853年のフランス領有宣言以来、抵抗するカナク人に対する弾圧は激しく、人口が一時半分近くになったほど。

土地は取られ、今でも国土の90%以上がフランスなど欧州系によって所有されているのです。

世界一の埋蔵量を誇るニッケルもほとんど欧州系市民が独占しています。

「怨念」は深いでしょう。

フランスは、85年7月に、独立を問う島民投票を行いましたが、カナク人の独立を求める動きは、フランスのミッテラン政権(当時)にも大きな影響を与えていました。

ニューカレドニアは他の島喚国と違う事情がありました。

カナク族などのメラネシア系が総人口14万4000人中、42%と少数派であることです。

ヲランス系市民の中には、この島で生まれ本国を知らない者も多いのです。

ニッケル鉱山を開発し、メラネシア人にも教育や労働のチャンスを平等に与えているとの自負もあります。

「独立して、はたしてまともな国がつくれるのか」とフランス系市民のタクシー運転手さんは言っていました。

フランス領ニューカレドニア

10年前にニューカレドニアへ行ったことがあります。

古タイヤやドラム缶が乱雑に積み上げられ、道は完全にバリケード封鎖されていました。

ライフルを構えた"兵士"たちが、鋭い目つきで警戒に当たっていました。

わきにへんぽんと翻る新国家「カキナー」(カナク人の国の意)の国旗。

南太平洋の"楽園"フランス領ニューカレドニア北東部の村での光景です。

そこにはフランスの甘い香りなど、ひとかけらも感じられませんでした。

一方、同時刻、その村から数百キロ離れたニューカレドニアの中心地ヌーメアでは、まったく違う光景がありました。

広場を埋めつくした8000人の市民たち。

打ち振られる三色旗。

演壇に立ったニューカレドニア議会のディック・ウケイウェ議長が呼びかけていました。

「われわれは永久にフランスと共にある」。


「そうだ。独立なんていうやつは海にたたきこんでやれ」

興奮した市民が叫びます。

わき起こるラ・マルセイエーズ(フランス国歌)。

それは大合唱となって会場を圧していました。

日本が輸入するニッケルの4分の1以上がニューカレドニア産です。

戦前、数千人の日本人が移民し、現在も約2000人の日系人が住んでいるのです。

この島を訪れる観光客で1番多いのが日本人。

この、日本と多方面で関係の深いニューカレドニアは当時、フランス植民地からの独立問題で大きく揺れていたのです。

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